とりとめもなく思い出したこと
父の暴力。
娘まで土下座をさせる。満足げな笑み。
怒鳴り散らし、周りのものをぐちゃぐちゃにした。
幼少期~小学生、それ以降もあったかもしれない、お風呂に入っている途中で怒鳴り声、けたたましい物音、お風呂上りには部屋は散乱していて、父はいない。母がたたずんで、片付けている。
「パパとママは喧嘩していないからね。大丈夫だから。パパが一方的に怒っただけだから。」
なにも大丈夫じゃなくて、不意に暴力が不安に感じたり、毎日を祈るように生きた。
「部屋をきれいにしても、パパがぐちゃぐちゃにするからもう片付けしない」
いつかそう言って、はっきりその日からではなかったと思うけど、家には物が溢れていった。
「家が汚すぎる。〇〇(姉)がごみ屋敷って言ってたぞ。」
姉がまた要らないことを言ったと思った。父に暴力の機会を与えてしまう。怯えた。
「ねえ、〇〇(私)の物がパパに捨てられてるよ。」母が言った。
段ボールにしまっていたおもちゃが捨てられていた。
家が汚くなってきたころ、なんだかんだ母は片付けを回避していて、それで私のものが捨てられようとしていたのだと思う。とばっちり。
詳しく覚えていないけど、私が残しておきたいものを、「もう要らないだろう」と言われた。とばっちりにおもちゃが捨てられようとしたときではなかったけど。
大学受験は父が切望した進路以外は否定された。怒鳴られ続け、暴力に怯えた。屈服する代わりに暴力は私にはふるわれなかった。受験期の辛さは私の選択権が踏みにじられたこと、希望しない進路の志望動機を書くこと、その苦しみが誰にも理解されないこと。受験日に父は「止まない雨はない」とメッセージを書いていた。私の苦しみは父から。父はそれが良い行いだと思っていたみたいで、そのメッセージを残していて、しばらく時間が経った後に、私がもらった賞状を保管するファイルに入れるか?と聞かれて、要らないと答えたけど、「いつかまた見たいかもしれないから」と保管していた。私が要るものは不要と言われる。私が不要なものは押し付けられる。
父の帰りが母よりも早いことがあった。
うどんいるか?と夕方過ぎ頃に言われて、その時はお腹もすいていて、食べたいと答えた。でも、父が帰ったのは22時くらいで、もうご飯を食べたくなかった。
帰宅した父が「食べるか?」と聞かれ、もうはいらない、と答えたけど、食べろ、といってうどんをゆがいて食べさせられた。
父はうどんを湯がくことすらしたことない人で、その後帰宅した母に、うどん湯がいたよ、思ったより簡単だった。と言っていた。
母は嫌そうだった。私はもう食べたくない時間だったのに、と父が去ったあとに言うと、欲しがったのがいけなかったと言われた。
いつだろうか覚えていない。小学校か中学の頃。
そのとき、なぜ母が父よりも遅い時間の帰宅が許されたのかわからない。
父は家に母がいないことを嫌がった。
一時期、ワイン会と称した集まりがあって、それにたびたび母は参加していた。
父の後に母が帰ってきた。
父が激怒した。ああ、母が殴られると思った。父と母の間に立ったけど、あっけなく、私はどかされて、母の頭を思いっきり叩いた。苦しみ、苦しみ。
目が見開いた、本当に怒っている人の顔を見たことがあるだろうか、血気迫る表情。それ。
無力感、恐怖、屈辱。
「何時だと思っているんだ」
「子供をほったらかして」
母の怯えた瞳。母は何も抵抗してないのに何度か、思いっきり叩いた。
「(私)は暴力を振るわれててもなにもしないね。見てるだけ。(姉)はパパがおかしいって言ってくれるのに」
その時ではなかったけど、母から言われた時はその通りだと思った。
でも、どうして。母は父と離れる選択が出来ない人だった。自立していなかった。
玄関で何度も何度も頭をたたかれた母は
「(私)と(姉)のために、自由にできるように私は戦う」と言った。
父は仕事を家族のために頑張ったというけど、それは家庭でのさまざまな形の暴力と引き換えだった。
どうして、間違った行動を正当化するのだろう。
母の戦いは母のためだけの不毛なものだった。
父は自分のプライドを守りたい人で世間体に縛られていた。私たちのためが第一でもなかったと思う。
あの人たちのなりたいものを実現するための家族ごっこに痛めつけられていた。私のため、家族のため。そのために行われる暴力、心を壊すような言葉。
誰も助けてくれない。誰も。
高校時代に担任に助けを求めたけど、かえって傷ついた。
父の暴力を訴えたら、それを母に確認していた。
父方の祖母に相談してみるように言われたけど、相談した後に家に帰ったときのことを考えると恐ろしかった。できないというと、「(私)はダメ出しばかりする」と言われた。
教頭も母と私と面談してくれたけど、「今の時代は医者の子供も医者になる必要がないのに。 」とごく一般的なことを言って、「逃げるなよ」と言っただけ。
逃げるなよ。
中学からリストカットが始まった。
コナンで、風呂場で腕を切って瀕死になる話があったから、死ぬために切っていた。
高校くらいで死ねないのはわかったけど続いていた。
「死にたいって思うやつもいるみたいだけど、日本に生まれただけで幸せなんだぞ。」と地理の先生がつぶやくように言った。
日本に生まれただけで幸せなんだぞ。
そう思える恵まれた環境で良かったですね。でもそれは感謝をしても、そう思えない環境にある人に言うべきじゃなかった。
なんでそっとしておくことすらしてくれないんだろう。
誰も助けてくれない、言ってはいけない。
虚言癖と言われたこともある。私の家族を知らない人に。
あんまりにも伝わらない。
みんな経験したことしか想像できない。
当たり前な愛情。その愛情の上になりたった人格、対人スキル、心身の健康。
私の苦しみは伝わらない。孤独。
理解されない苦しみ。
与えられず、奪われ、壊された。
母は私に失望していた。
「パパが変わるかなと思って(私)を生んだ、でも変わらなかった。生まれて来てくれたことは嬉しいけど。」
「(私)が男の子だったらよかったのにね、それだったらパパを止めれたのに。でも、女の子だから仕方ないね。」
「やっぱり男の子は親孝行みたいだね。うちは女の子だからね。」
「羨ましい、男の子ってやっぱりお母さんに優しいんだね、うちは女の子だから」
男の子だったらよかったのに、守ってもらえたのに。女の子だからダメだった。
母の友人は男の子だったらよかったのに、と私の前で母がいうのをみて、私をちらっとみて、そんなことない、うちの子は全然、(私)はいい子じゃない、といった。
「そんなことないよ。大切にしてくれない。」
女の子だったら買い物とか一緒に出来て楽しいじゃない、とその人は言った。母は首を振った。
母は私たちが女に変わるのを嫌がっていた。そんなの楽しむわけなかった。
男の子だったら良かった。女の子はダメだ。