父との電話

少しは赦したいと思ってる。

他の、赦したいんだけど、屁率靴ばっかり言っている人たちってみんなどう接してるのかな。

 

結婚とか考えると親子関係を少しはましにしたかったけど失敗。 

土下座させたことは悪かったと思う。土下座したらいいの?おしまい。

それだけ。

 

あとは、話鉄途中で言うこと聞けよ!とか、冷静に話せよ!とかそういうの。

冷静になれないのだれのせいだよ。ちゃんと謝らないからだろうが。言い訳しかしないからだろうが。

 

法的にでるか、社会的に困らせるか、そうでもしないとわからないっぽいね。

私の労力がそこで減るのも嫌だわー。

ちゃんと死ぬまでに後悔にさいなまれて死んでほしい。死んで許されるなんてないから。死にたくても死ねない地獄を味わえ。

結婚について思うこと

他の家の人みたいに、結婚が幸せなものだとか、普通の家族を知らないけど、

一人で生き続けるのに疲れた。

誰か、私を傷つけない人と一緒なら、もう少しよく生きれるのかなって思って。

妊娠できなくなるのが不安なのもあるし、最初はそのせいだったけど、もう少し良く生きたい。

 

傷つけなさそうな人はいるけど、結婚したいと思ってくれるかわからないし、

結局、私はヒトモドキだから、要らないって言われそうでこわい。

 

結婚ってなると、家のつながりでもあるから、あの人達にも伝えたり、挨拶したりしないといけないみたい。嫌だな。

旅行に連れて行っても嫌なことが起きたし、これ以上、傷つきたくない。

 

謝ったのに、って言われるけど、一つ一つについて謝ってもらえてないし、言い訳したり、私の記憶違いっていったり、「あー!ごめんね!」みたいないい加減にしか謝らないし。

何度も傷ついて、苦しんで、死にたい気持ちも耐え忍んで、あの人たちをあやしてきたのに、なんで、そんな、「なんかごめんね」みたいなので終わらせられると思うの。

貴方たちが死んでも、私は傷ついて苦しんでいくのに。

人を信用してもいいような場面で信じられなくて、神経質って言われる。

人の一つ一つの行動が気になってしまう。

攻撃的な人に逆らえない。

自分が正しいと思えなくて、理不尽なことを言われて飲んでしまう。後から相手の主張が間違っていることに気がついて苦しくなる。

そういう後遺症さえあるのに、吹き出す苦しさを、忘れたらいいのに、とか、簡単に終わらせられると思ってるの?押し付けるの?

 

とことん謝ってもらえたら許せた。終わらせられた。

私も許すために家に招いたり、仕送りしたりしたけど、無駄だったじゃん。

お金はごまかして浪費に使われて。

 

私がこだわり続けてるのもつらい。執着を捨てたい。

記憶を取り除きたい。

親子だった記憶も形跡もすべて消して生きたい。

 

あの人たちは変わりようがないから、記憶を消し去ればもっと良く生きれるのに。

性的嫌悪(家族外のこと)

中学の時、健康診断で、聴診器で乳首に触れられたことをはっと思いだした。

 

個室で、上半身裸にされて、女性の先生が診察に付き添っていた。

あまりにも急でどうしていいかわからなくて、診察医を見て、学校の先生の方を見たけど、学校の先生は目を伏せていて、気が付いてもらえなかった。健診医の先生は表情を変えていなかった。

健診医の先生は聴診器の位置をずらして、診察が終わった。

悪戯があってもなくてもかわらなかったかもしれないけれど、早く体操服を着たくて、着ている途中で診察票を学校の先生が検診票を受け取るように促した。

 

上半身裸で、乳首の上に聴診器を充てる意味はなくて、悪戯された。

思い出して悔しくなった。

 

それとは別に、幼稚園のとき、確か幼稚園のときだったけど、

エレベーターでお尻を触られた。

姉がふざけて触っているんだろうと思って振り返らなかったけど、なんだか気持ちの悪い動きをしていた。

男性がエレベーターから降りた後、姉が「お尻触られてたね。」と言った。

 

ただの大人の出来心だろうけど、悔しい。

性的な悪戯は、やった当事者はただの出来心だろうけど、やられた当人は苦しい。

満たされない

私のやりたいこと、

生きづらさを抱える子供たちを救うこと。

 

でもそれも私は過去に縛られてる。

慈善奉仕でもなくて、過去の私を救いたいから。

 

供養。ただの供養。

供養しても供養しても終わらない。

自己満足に気が付いている。

救われる子供たちを見ると悔しくなる。

私は苦しんだのに、未だに苦しんでいるのに。

なぜ、あなたたちは救われるの?

ずるい。

 

生きている意味を見出せない。

 

ただむなしく一日を終える罪悪感は少なくなったけれど、

むなしく不健康な毎日。

居ても居なくてもいいような。

仕事も一昔前ほどは必要とされていないみたい。

 

仕事の愉しみもなく、一人の時間はひらすら虚しい。

仕事に関する勉強は知的好奇心をくすぐるけれど、それ以上の喜びはなくて知識は消えてしまう。

仕事の愉しみがないわけではないけれど、一瞬で過ぎ去る。

一人の時間、虚しさ。

満たされない。

 

過去が消えない。色濃い。

消してしまいたくないと思っているのかもしれない。

過去の傷がなくなれば、子ども時代に何も残らない。

空っぽ。本当に空っぽ。

 

私は乾いている。

少しの水では活力を見出せない。

あまりにも飢えて、乾いていて、少しの水はすぐになくなってしまう。

元から十分に与えられた人から見ると欲張りだろう。

私はすぐに乾く。空っぽだから。空っぽすぎたから。与えられなさすぎた。奪われすぎた。

身を亡ぼす憎しみ

身を亡ぼす憎しみ

身を焼き尽くす

 

この杯を遠ざけてほしい

 

彼らもかわいそうなひとだった

幸せな家庭を築きたかったのを知っている

でも、方法を知らなかった

自分たちの方法で幸せになれると思っていた

 

幸福は一つの家庭から始まる

それを知らなかったわけでもない

 

赦したい

悲しみを、憎しみを手放したい

 

赦してください、赦してください

私は父と母を愛したかったのです

 

父と母を愛したい

憎しみを忘れたい

 

神は死んだ

私の救いはどこにあるのか

とりとめもなく思い出したこと

父の暴力。

 

娘まで土下座をさせる。満足げな笑み。

 

怒鳴り散らし、周りのものをぐちゃぐちゃにした。

幼少期~小学生、それ以降もあったかもしれない、お風呂に入っている途中で怒鳴り声、けたたましい物音、お風呂上りには部屋は散乱していて、父はいない。母がたたずんで、片付けている。

「パパとママは喧嘩していないからね。大丈夫だから。パパが一方的に怒っただけだから。」

なにも大丈夫じゃなくて、不意に暴力が不安に感じたり、毎日を祈るように生きた。

「部屋をきれいにしても、パパがぐちゃぐちゃにするからもう片付けしない」

いつかそう言って、はっきりその日からではなかったと思うけど、家には物が溢れていった。

 

「家が汚すぎる。〇〇(姉)がごみ屋敷って言ってたぞ。」

姉がまた要らないことを言ったと思った。父に暴力の機会を与えてしまう。怯えた。

 

「ねえ、〇〇(私)の物がパパに捨てられてるよ。」母が言った。

段ボールにしまっていたおもちゃが捨てられていた。

家が汚くなってきたころ、なんだかんだ母は片付けを回避していて、それで私のものが捨てられようとしていたのだと思う。とばっちり。

 

詳しく覚えていないけど、私が残しておきたいものを、「もう要らないだろう」と言われた。とばっちりにおもちゃが捨てられようとしたときではなかったけど。

大学受験は父が切望した進路以外は否定された。怒鳴られ続け、暴力に怯えた。屈服する代わりに暴力は私にはふるわれなかった。受験期の辛さは私の選択権が踏みにじられたこと、希望しない進路の志望動機を書くこと、その苦しみが誰にも理解されないこと。受験日に父は「止まない雨はない」とメッセージを書いていた。私の苦しみは父から。父はそれが良い行いだと思っていたみたいで、そのメッセージを残していて、しばらく時間が経った後に、私がもらった賞状を保管するファイルに入れるか?と聞かれて、要らないと答えたけど、「いつかまた見たいかもしれないから」と保管していた。私が要るものは不要と言われる。私が不要なものは押し付けられる。

 

父の帰りが母よりも早いことがあった。

うどんいるか?と夕方過ぎ頃に言われて、その時はお腹もすいていて、食べたいと答えた。でも、父が帰ったのは22時くらいで、もうご飯を食べたくなかった。

帰宅した父が「食べるか?」と聞かれ、もうはいらない、と答えたけど、食べろ、といってうどんをゆがいて食べさせられた。

父はうどんを湯がくことすらしたことない人で、その後帰宅した母に、うどん湯がいたよ、思ったより簡単だった。と言っていた。

母は嫌そうだった。私はもう食べたくない時間だったのに、と父が去ったあとに言うと、欲しがったのがいけなかったと言われた。

いつだろうか覚えていない。小学校か中学の頃。

 

そのとき、なぜ母が父よりも遅い時間の帰宅が許されたのかわからない。

父は家に母がいないことを嫌がった。

一時期、ワイン会と称した集まりがあって、それにたびたび母は参加していた。

父の後に母が帰ってきた。

父が激怒した。ああ、母が殴られると思った。父と母の間に立ったけど、あっけなく、私はどかされて、母の頭を思いっきり叩いた。苦しみ、苦しみ。

目が見開いた、本当に怒っている人の顔を見たことがあるだろうか、血気迫る表情。それ。

無力感、恐怖、屈辱。

「何時だと思っているんだ」

「子供をほったらかして」

母の怯えた瞳。母は何も抵抗してないのに何度か、思いっきり叩いた。

 

「(私)は暴力を振るわれててもなにもしないね。見てるだけ。(姉)はパパがおかしいって言ってくれるのに」

その時ではなかったけど、母から言われた時はその通りだと思った。

でも、どうして。母は父と離れる選択が出来ない人だった。自立していなかった。

 

玄関で何度も何度も頭をたたかれた母は

「(私)と(姉)のために、自由にできるように私は戦う」と言った。

父は仕事を家族のために頑張ったというけど、それは家庭でのさまざまな形の暴力と引き換えだった。

どうして、間違った行動を正当化するのだろう。

母の戦いは母のためだけの不毛なものだった。

父は自分のプライドを守りたい人で世間体に縛られていた。私たちのためが第一でもなかったと思う。

あの人たちのなりたいものを実現するための家族ごっこに痛めつけられていた。私のため、家族のため。そのために行われる暴力、心を壊すような言葉。

 

誰も助けてくれない。誰も。

高校時代に担任に助けを求めたけど、かえって傷ついた。

父の暴力を訴えたら、それを母に確認していた。

父方の祖母に相談してみるように言われたけど、相談した後に家に帰ったときのことを考えると恐ろしかった。できないというと、「(私)はダメ出しばかりする」と言われた。

教頭も母と私と面談してくれたけど、「今の時代は医者の子供も医者になる必要がないのに。 」とごく一般的なことを言って、「逃げるなよ」と言っただけ。

逃げるなよ。

 

中学からリストカットが始まった。

コナンで、風呂場で腕を切って瀕死になる話があったから、死ぬために切っていた。

高校くらいで死ねないのはわかったけど続いていた。

「死にたいって思うやつもいるみたいだけど、日本に生まれただけで幸せなんだぞ。」と地理の先生がつぶやくように言った。

日本に生まれただけで幸せなんだぞ。

そう思える恵まれた環境で良かったですね。でもそれは感謝をしても、そう思えない環境にある人に言うべきじゃなかった。

なんでそっとしておくことすらしてくれないんだろう。

 

誰も助けてくれない、言ってはいけない

 

虚言癖と言われたこともある。私の家族を知らない人に。

 

あんまりにも伝わらない。

みんな経験したことしか想像できない。

当たり前な愛情。その愛情の上になりたった人格、対人スキル、心身の健康。

私の苦しみは伝わらない。孤独。

理解されない苦しみ。

 

与えられず、奪われ、壊された。

 

母は私に失望していた。

「パパが変わるかなと思って(私)を生んだ、でも変わらなかった。生まれて来てくれたことは嬉しいけど。」

「(私)が男の子だったらよかったのにね、それだったらパパを止めれたのに。でも、女の子だから仕方ないね。」

「やっぱり男の子は親孝行みたいだね。うちは女の子だからね。」

「羨ましい、男の子ってやっぱりお母さんに優しいんだね、うちは女の子だから」

男の子だったらよかったのに、守ってもらえたのに。女の子だからダメだった。

母の友人は男の子だったらよかったのに、と私の前で母がいうのをみて、私をちらっとみて、そんなことない、うちの子は全然、(私)はいい子じゃない、といった。

「そんなことないよ。大切にしてくれない。」

女の子だったら買い物とか一緒に出来て楽しいじゃない、とその人は言った。母は首を振った。

母は私たちが女に変わるのを嫌がっていた。そんなの楽しむわけなかった。

男の子だったら良かった。女の子はダメだ。

記憶にある最初の虐待

思いだすときは噴出して思いだす。

本来はナラティブセラピーとして書きたくて、定期的にしたかったけど、思いだすと辛いからなんだかんだ、書くのを避けていたけど、やっぱり書いたほうが楽だな。

 

 

父に土下座させられた思い出

 

一番最初の思い出はたぶん、

幼少期(小学校低学年かもしれない)に父に土下座させられたこと、

祖父にたかいたかいをされているときに母に喜ぶなといわれたことのどちらか。

 

直前の記憶は切れている。

怒鳴り声があったわけじゃなかったと思う。ピリつく感覚もなかったと思う。

私はたぶん立っていた。リビングの丸いテーブルの近く。私の少し、数歩くらい離れたところに母がいた。私が普段座っていた椅子の横のあたりにいたと思う。父は、いつも父が座っている席のあたりにいたと思う。立ってたか、座っていたか、たぶん立っていた。

母に、「ママと一緒にパパに謝って」と言われた。母は父に土下座した。ごめんなさいか、何か言ってただろうか。「パパ、ごめんね」って言っていた気がする。

母に土下座しろと言われたわけではないけど、一緒に謝るということは母は土下座しているわけだし、私も土下座しないといけないんだと思った。

母の横に並んで土下座した。リビングに膝をついて、フローリングの木の木目が目のまえに近づいた。額をフローリングに近づける屈辱を感じた。なにが悪いのか、なんで謝るのか、わからなかったけど、一緒に謝るようにいわれたからごめんなさいと言った。

 

顔をあげると、父が笑顔で「いいぞ」といっていた。

子どもながらに、その笑顔が気持ち悪いと思った。

その後、立ち上がって、どうしたんだろう。

近づく木の木目、気持ち悪い父の笑顔、記憶はそれで終わる。

 

でも時系列で書こうと意識すると、当時座っていたとか立っていたとか、何を言ったかとか思いだせるものなのか。

 

父はたぶん、覚えていない。覚えていないから謝らないんだと思う。だいぶ最近、数年前に父にこのエピソードをぶつけたけど、特になにもコメントしなかった。

母はそれより早めに伝えたけど、覚えてなくて、「ママは何回も土下座させられたことあるけど、〇〇(私)もあるの?」「でもそれ、〇〇(私)が悪いことしたんじゃない?」って言われた。

私が悪いことしたのかな、という気持ちにもなって他の人に話してみたら、「幼稚園とか小学校低学年で土下座しないといけないほどのことって例えばなに?」と言われて、確かに異常だったんだと思った。

 

最初の屈辱、最初の両親との記憶。

 

思うこと

 

勉強も人よりできたし、今の仕事も社会的ステータスは高いんだけど、それに見合わない自尊心の低さ、すぐ謝る癖があるけど、これは少なからず影響を与えただろうと思ってる。

人とトラブルが起きたときに、感情が不安定になりやすくて、我慢してしまうか爆発してしまうかなりやすいけど、こうやってわけもわからず押さえつけられた後遺症、良いコミュニケーションを見本にできなかったことがあるだろうなと思っている。

 

本当の私は?

最近、旅行に出かけたり、人から活動的にみられるみたいだけど、私は私がわからない。みんなだいたい、思春期くらいまでにどんな子供だったかとかわかるみたいだけど、抑圧ばかりされていたから、本当の私がいない。

あなたは体力がないから、と言われ続けたから、体力がないと思っていたし、頭のなかで繰り返しつらいことが起きてエネルギーの消耗がひどくて他の人と同じ体力ではないけど、でもそれは後天的な理由だし、本当の私は体力があったのかもしれない。実際、父も母も姉も体力があるので私も、もっとエネルギーがあって、人と話したり交流するのが好きだったかもしれない、と思うけど、本当の私は子供時代にいない。

本来は与えられたはずの自由に過ごしていた時期に思いを馳せてつらい。

それを普通に受け取れた人達の理解のない言葉が二次的に傷つける。苦しめる。

 

普通の、感謝できる家族を持っている人たちが羨ましい。結婚に憧れたり、当然の物だと思いたかった。子供を持つことに疑問を持たず、希望を持ちたかった。

私はヒトモドキなんだと思う。他の人たちと同じようにふるまうけど、中身はまるで違う。繋がりたいけど、傷つくことが多くて繋がれない。傷つくからとかじゃなくて、繋がり方がわからない。距離を詰めすぎたり、完全に心を閉ざしてしまったり、人との距離感がわからない。敵意と善意がわからない。

生きていくことが、人と関わることが、痛みに満ちている。

 

父にも母にも負いきれなかったくびきを背負って生きていく。